No.5
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松平定信
松平定信(1758〜1829)は,御三卿・田安宗武の七男として生れ,八代将軍・吉宗の孫にあたります。安永三年(1758)に白河藩主(福島県)の松平定邦の養子となり,天明三年(1783)には,家督を継ぎました。天明六年(1786)に老中首座に就任し,以後六年間にわたる「寛政の改革」で知られています。
定信が,老中として活躍したのは,三十代の前半期です。老中を退いた後は白河藩主として,藩政に尽くします。文化九年(1812)に家督を嫡子・定永に譲り自らは「楽翁」と号して,一流の文化人としての生活を送りました。
定信のイメージは,やはり「政治家」の定信です。教科書にも「寛政の改革」で掲載されるのみです。しかし,老中在任期間はわずか六年です。三十代後半から亡くなるまでの方が長いのです。
菅茶山と松平定信の対面
備後国神辺(広島県神辺町)の菅茶山(1748〜1827)は,文化九年に刊行の『黄葉夕陽村舎詩』で当時の漢詩人として一流の評価を得ていました。福山藩儒でもあった茶山は,文化十一年(1814)藩命により江戸へ赴きました。そこでは,各藩の藩儒や文人たちとの交流が盛んに行なわれました。
年が明けた文化十二年(1815)の二月五日,帰郷を前にした茶山は,白河藩下屋敷に造営された「浴恩園」に招かれました。
定信は自身の日記『花月日記』にこう記しています。「昼つかた茶山をまねく。齢もいとたかし。林の君も,詩ハ茶山,文ハわが方の典なりと,つねに賞し給うほどの人なれバ,この亭舎によて,からうたこハんとて,よびたる也。」
つまり,林の君(林大学頭述斎)が賞賛する茶山に,「魁春園」(春知る里)の漢詩を求めるために呼んだのです。
当日,白河藩士に案内され園内を巡った茶山は,春風館で定信と対面します。漢詩や和歌を作ってしばらく過ごしたのち,定信は一枝の梅を手折り,和歌を添えて茶山に差し出しました。
その和歌は,「故郷を おもふもしばし なぐさめよ むめの色香は よしあさくとも」です。
この後,二人は望嶽台に登り富士山を眺めています。雪の舞う寒い一日であったようです。
梅の行方
定信に賜った梅は,福山藩邸に持ち帰られ,接木して鉢植えにされました。茶山は,帰郷するにあたって,この鉢植えを石田梧堂という人物に預けていました。そして,文政元年(1818)四月,芳野への花見をした茶山は,京都へ滞在していました。その宿へ倉敷の小野梅舎という人物が,鉢植えを届けてきました。
その梅は,そのまま宿へ置かれたのかも知れません。
文政四年(1822),茶山の日記には,梅が神辺へ届けられたことを記しています。二日後には庭へ植えかえをして
います。こうして,江戸の築地にあった「浴恩園」の梅は,神辺まで届けられたのです。
エピローグ
文政七年(1824)に白河藩士の田内月堂(定信の近侍)から届けられたものがあります。『浴恩園図並詩歌巻』です。この中に白河藩お抱え絵師の星野文良が描いた梅の絵があります。
この添書に「かの手折りてまいらせし梅のすがたをこゝにうつさしむ」とあります。まさに定信が手折った梅を描いているのです。このことからも,茶山と白河藩士たちにとって,浴恩園での宴は,忘れがたい出来事であったのでしょう。
茶山は,文政十年(1827)に生涯を神辺で閉じました。その二年後,大火により,浴恩園も灰燼と帰します。その二ヵ月後,定信もこの世を去りました。
この一枝の物語は,『浴恩園図並詩歌巻』の中に見ることができます。