発掘調査によって明らかになった中世の町「草戸千軒」は、どうして消滅してしまったのでしょうか?残念ながら、この疑問に明確に答えられるまでに研究は進んでいません。
皆さんの中には、「どうして?草戸千軒は洪水で滅んだはずでは?」と思われる方もいらっしゃることでしょう。確かに、これまでは機会あるごとに「洪水によって滅びた幻の町」として紹介されてきました。しかし、30年以上にわたる発掘調査の成果や、近年の研究の成果などを総合すると、この町は洪水で消滅したとは考えられなくなってきたのです。
草戸千軒が洪水で滅びたと考えられてきた根拠は、江戸時代中期に福山藩士の宮原氏がまとめた『備陽六郡志』という書物の中の次のような記述です。
「往昔、蘆田郡、安那郡邊迄海にてありし節、本庄村、青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に、草戸千軒と云町有けるか、水野の家臣上田玄蕃、江戸の町人に新涯を築せける。水野外記と云ものいひけるは、此川筋に新涯を築ては、本庄村の土手の障と成へしと、かたく留けれとも、止事を不得して新涯を築、江戸新涯と云。其後寛文十三年癸丑洪水の節、下知而、青木かはなの向なる土手を切けれは、忽、水押入、千軒の町家ともに押流しぬ。此時より山下に民家を建並、中嶋には家一軒もなし。(後略)」
ここには、寛文13年(1673)の洪水によって草戸千軒の町が壊滅したかのように書かれています。しかし、順を追って内容を解釈していくと、必ずしも洪水で壊滅したとは解釈できないことがわかってきます。
まず、最初の部分で草戸千軒がいつ存在した町なのかが示されています。それは、蘆田郡・安那郡あたりまでが海だった頃だということです。蘆田郡・安那郡というのは現在の福山市北部から神辺町にかけて広がる神辺平野一帯のことで、このあたりが古くは「穴の海」と呼ばれていたことから、昔は福山湾がこのあたりまで湾入していたのだという伝説が残っています。しかし、地理学的な研究からは神辺平野にまで海が入り込んでいたことを示す証拠はなく、縄文時代中期以降の遺跡も分布していることから、芦田川の後背湿地が「海」と表現されていたのではないかと考えられます。それに、もしそこまで海水面が高かったとしたら、草戸千軒町遺跡のある場所も完全に水没してしまい、町など存在できなかったはずです。
いずれにせよ、ここでは草戸千軒の存在した時代が、はるか昔のこととして提示されているに過ぎないのです。
次に、寛文13年の洪水の直前がどのような状況であったのかを見ていくと、そこは江戸の町人に新涯(新田)を築かせた場所だったと書かれています。そして、新涯を守る土手を切ったために、水が流れ込んだということです。つまり、洪水直前に「青木か端の邊より五本松の前迄の中嶋に」あったのは、新たに築かれた水田だったことになり、そこに町が存在していたことは考えにくくなります。
洪水直前に、草戸千軒の町が存在していなかったことについては、青野春水氏が既に次のような研究を発表されています。
そして問題となるのが、「千軒の町家ともに押流しぬ」の部分でしょう。特に、「千軒の町家」が草戸千軒の町家のことを指すのかどうかが問題となります。冒頭の「草戸千軒と云町」と関連させて解釈すれば、草戸千軒を指すと考えるのが当然ですし、これまでもそのように解釈されてきました。しかし、ここまで検討してきたような解釈からは、草戸千軒の町が寛文13年の洪水で流されたとは考えられず、「千軒」=「草戸千軒」と解釈すると、記述内容が矛盾することになってしまいます。
これをどのように解決するかは難しいところですが、一つの解釈としては、編者の宮原が洪水の被害が大きかったことを伝えたいあまり、つい筆の勢いで「千軒の町家」と書いてしまったとも考えられます。
一方、発掘調査の成果からは、草戸千軒が町として機能した最終段階は16世紀初頭であることが明らかになりました。私たちがIV期後半と呼んでいる段階に、それまで使われていた井戸や溝などの施設が一斉に埋められているのです。また、洪水で埋まったような痕跡も見つかっていません。17世紀以降も、わずかに井戸や池・溝などが作られてはいますが、池や溝は耕作地に関連するものと考えられ、井戸もかつてのような密度では分布していません。
以上のようなことから、私たちは草戸千軒の町の最終段階を16世紀初頭と考えています。また、多くの施設を意図的に埋めていることから、町の消滅は洪水のような自然災害によるものではなく、政治的・社会的な要因による可能性が高いと考えています。
以上のような検討結果から、草戸千軒の町が寛文13年の洪水によって一瞬のうちに姿を消したとは考えられなくなったわけです。おそらく、宮原が『備陽六郡志』をまとめた元文・安永年間(18世紀中頃から後半)には草戸千軒は伝説の町となり、その詳細はほどんとわからなくなっていたのではないでしょうか。洪水の経緯が比較的詳細に記録されているのに対して、町の様子についての記載がほとんどないことからは、そんなことが考えられます。
伝説の町は、発掘調査によって現代によみがえったわけですが、なぜ草戸千軒が消滅したのかは、未だ明確にできていません。私たちは発掘調査によって膨大な資料を手に入れることができましたが、それらを福山という地域の中で総合的に解釈していく作業はまだ始まったばかりです。今後、草戸千軒の町が地域社会に果たしていた役割を具体的にしていく中から、草戸千軒の町の成立や消滅の理由も明らかにできるのではないかと考えています。